大正15年、小規模な家庭的施設を創設

武田塾は「不良児童ノ感化教育及其他一般児童ノ教化二関スル施設」として、大正15年(1926年)11月4日、現在の柏原市高井田669番地でスタートしました。

創設者・武田慎治郎は子どもに恵まれず、迎えた養子も若くして亡くしました。そこで慎治郎は残された財産を子どものために役立てようと考えたのです。
これには、自身が修徳館(現・修徳学院)の2代目院長として、従来の寄宿舎制度を改め、大規模な施設ではなく、小規模な家庭的施設の必要性を痛感していたことが大きく関わっています。

「共に在る」を実践

当時の塾則の第1項に、「本塾ハ境遇又ハ身神ノ欠陥二因り家庭二於テ教養困難ナル児童ヲ引受ケ、家庭二代リ教養ヲ為スモノトス」とあります。感化教育施設として開設された武田塾は、始めから現在の児童養護施設をイメージしていました。
慎治郎は、当初から「感化院は教育主義、人格尊重主義のもとに経営すべきもの」という信念を持っていました。そして、「定員は社会の普通家庭の員数を以て標準とすべき」「家族舎間の距離も許す限り間隔を取りたい」と、できるだけ家庭に近い環境を志していました(「感化七想」社会局編刊『感化事業回顧三十年』昭和5年)。武田塾の基本理念である「共に在る」の実践は、そこから始まっています。
また、その考えは入所児童に留まらず、広く地域にも及び、当時から講演会や農繁期の一時保育も行っていました。

現在の児童養護施設の機能に含まれること・求められることばかりで、今から見ると当たり前に映るかもしれませんが、創設当時の社会状況を考えると、先駆的な視野に立っていたと考えられます。

真に親となり子となりて、温たかき家庭生活を味わしめん

さて、60歳当時、慎治郎は「武田塾設立に就(つい)て」という文書中に「余は多年斬種(このしゅ)教育の経験より打算して、此(ここ)に私設教育機関たる武田塾を設け、真に親となり又子となりて、比較的温たかき家庭生活を味わしめんがために、塾舎の構造如きも最も意を此(これ)に注ぎ、且つ現在の欠陥たる未だ不良化に至らざるも、他日其虞(おそ)れある所の幼年者を収容し、尚良家に於ける隠れたる不良化の虞(おそれ)あるものをも教育して、聊(いささ)か現代の欠陥を救済せんと欲する所以なり」と記しています。

家庭に恵まれない子ども達のために親となって温かみのある生活を共にし、家庭において問題傾向の見られる子どもも同じように教育していきたい。この言葉こそが、武田塾設立の目的であり、更には現在まで受け継がれている意思なのです。